「1時間ドラマを5分30秒で観る」「動画配信サイトの画面下にあるあらすじを読み、その内容が書いてあるところまで飛ばし飛ばし10秒スキップして、『今あらすじに書いてある2行目ぐらいのシーンって、ここだな』と確認しなが観る」
『映画を早送りで観る人たち』では、倍速視聴と10秒飛ばし習慣がここまで浸透した背景として、
【1】映像作品の供給過多
【2】現代人の多忙に端を発するコスパ(タイパ)志向
【3】セリフですべてを説明する映像作品が増えたことを三本柱に掲げ、様々な人にヒアリングしました。
その中で、ある大学生の言葉が印象的だったんです。「今の大学生は昔の大学生に比べてお金と時間がないんです」
倍速視聴の次の主流として、Z世代を中心に圧倒的に来ているのが、「切り抜き動画」ですね。私の周囲にも、某アイドルオーディション番組を切り抜きで全部見たという人がたくさんいます。後からまとめて見るには課金しなきゃいけないので。
小鹿野
2 years ago @Edit 2 years ago
逆に言えば、
はしょらず全編通しで観ないと意味がわからないようなドラマは切り取られない。
切り取られないと拡散されない。
拡散されなければ話題にならない。
切り抜き動画がCMの役割を果たしているとするなら、
「切り抜きにくいコンテンツ」は話題になりにくいことになる。
そもそもなんですけど、なんで切り抜き動画を見るんですか?
TikTokって目的があって見るんじゃなくて、暇なときなんとなくダラダラ見るアプリです。
面白いものを探すためにダラダラとザッピングしているという意味では本屋と役割は同じ。
「何か観よう」と思って行くのがNetflixとアマプラ。TikTokは本当に何の目的もない時にアプリを開くので、違いますね。
次の動画が勝手に再生されるから、やめられない……私たちって「区切る」のがむちゃくちゃ苦手なんですよ。おすすめ動画が自動再生されると、永久に見続けてしまう。
一個問題。Netflix的自動播放下一集和跳過片頭是TikTok後果的其中一種具現嗎?(又或是原先既有的功能陰錯陽差地回應了TikTok效應)我記得以前有過一個討論,劇集原先都是沒有「片頭、片尾」的概念的,到了某個時段才成為一種必要的「部分」,現在又因為TikTok的崛起所以片頭片尾要再次退場了嗎?
要尋找消費性娛樂的話,Z世代人類漫無目的的閒逛不再以書店為主流。我們這時代的「都柏林人」要閒逛都不是走在街上,而是在Tiktok和Youtube上了嗎……(Youtube甚至也過於「正經」了)
脚本家からすると、配信はCMが入らないという点も大きいです。民放地上波アニメの場合、CMがどこに入るかをシナリオ段階で想定し、CM前をAパート、CM後をBパートというふうにします。Aパートの終わりでどう引っ張ってBパートにつなげるかを、考えて書くわけです。
しかし初出しが配信の場合、CMがないので、Aパート・Bパートといった概念はなくなる。よってCMによる区切りを設けない、最後まで一気に物語を走らせるようなシナリオを意識する必要が出てきます。オープニングやエンディングも飛ばせるので、1話ごとの区切りという概念すら希薄ですよね。
連続ドラマをVHSなりDVDなりでレンタルしていた時代って、冒頭が多少つまらなくても「せっかくお金を出して借りたんだから」と、とりあえず全部観ていました。それで2話なり3話なりを最後まで観たら結構面白かった、じゃあまた借りるか、ということもあった。だけど配信にそれはない。どうせ月額料金は固定なので、途中で観るのをやめても損はしない。むしろ時間を無駄にするくらいなら、1分でも早く停止ボタンを押したほうがいい(笑)。
だから、第1話冒頭からいきなり大きな事件が起きているようなシナリオが推奨されます。その上で、主人公がどういう人物であるかが、冒頭でちゃんとわかるようにしておかなければなりません。
要記得以上所有的結論都是基於
「市場取向」、「商業」、「話題性」、「消費性文本」為第一考量。
とにかく、一番大事なことを最初に描く。時系列通りでなくてもいい。
「どうしてそうなったのか」を、第2話以降で時間をさかのぼって描けばいいんですから。むしろそのほうが、第1話の時間軸に到達するまで観客の興味を引っ張り続けられます。
故事從中間開始說起。這倒也不是閱聽碎片化的後果,我們荷馬老早就用過這招了,in medias res
攔腰法 - 维基百科,自由的百科全书 多くの映画ファンはNetflixとAmazonプライムビデオが普及しはじめたときに喜んだと思うんですけど、僕は絶望の方が大きかったんです。
小鹿野
2 years ago @Edit 2 years ago
「ああ、これで観たい映画やドラマやアニメを一生かけても全部観きれなくなった……」って。
……『選択の科学』(シーナ・アイエンガー著)という本には、「人間は選択肢が多すぎるとかえって幸福を感じにくくなる」と書かれています。なぜかというと、「選ばなかった大多数のものの中に、もっと良い選択肢があったに違いない」と未練を抱いてしまうから。
哈哈哈哈哈哈。
若者のあいだで「批評」と「スポーツ観戦」が不人気な理由(稲田 豊史) @gendai_biz早送り用には撮っていないし、書いていない。それは、漫才師がコンマ1秒単位で“間(ま)”を計算して披露するネタを、倍速で観てほしくはないのと同じだ。
しかし、件の記事にはかなり多くの“反発”も寄せられた。「どう観ようが勝手」「観方を押し付けるな」。作り手が普通に観てほしいと願っても、関係ない。
「僕・私にとって、もっとも快適な形で作品を提供しない作り手が悪い」という気分すら見え隠れする。
何か、
作品鑑賞というものの根本的な定義が揺らいでいるようにも思える。
……説明セリフが少ない作品を「不親切」だと怒る観客を、「幼稚になってきている」と評したアニメプロデュース会社・ジェンコの代表取締役社長、真木太郎プロデューサーは、作品に快適だけを求める傾向もまた「観客の幼稚化のひとつでは」と漏らす。
不能更認同了。
「エンタメに対して『心が豊かになること』ではなく、『ストレスの解消』を求めれば、当然そうなります。心に余裕がない、完全にストレス過多なんですよ、特に若い世代は」
小鹿野
2 years ago @Edit 2 years ago
それは、世界的な傾向として「スポーツを観戦する若者が減っている」という事実からも明らかだという。
「ストレス解消が目的なので、応援しているチームが勝つ場面しか見たくないんです。でも、スポーツは応援したからといって必ず勝つわけではありませんよね。言ってみれば、“リターンの博打度が高い”。だから、勝った試合のダイジェスト映像だけを見る。もしくは、特定のチームを応援せず、ファインプレーや点が入った“かっこよくて気持ちいい”シーンだけを見る。
こうなると、スポーツファンではなく、“スポーツユーザー”ですね。ですから、日本のサッカー観戦ファンは高齢化の傾向が心配されていますし、スポーツコンテンツ王国のアメリカですら、ファンの高齢化に悩んでいるのが実情です」(森永氏)
まさに、「快適」だけを求める志向だ。
小鹿野
2 years ago @Edit 2 years ago
勝利 → 減壓 → 愉快。完全就是巴夫洛夫的狗。
這當然不是「錯」,要如何享受、消費文本完全就是各自的自由沒錯,但是消費習慣的速食化的確將導致無法挽回的後果。
小鹿野
2 years ago @Edit 2 years ago
一日中、したくもない仕事をしてストレスを溜め込んで帰ってきて、あるいはLINEグループの人間関係に疲れ果てているのに、考えさせられるドラマなんぞ観たくないのだろう。だからこそ、TVドラマにもスポーツ番組にも、ストレス解消という機能を求めるというのは、わかる。自分にとって快適なものだけを摂取したい。それを突き詰めると、「自分にとって快適な視聴方法で観たい」になるのは自然なことなのかもしれない。不快だったり退屈だったりするシーンは飛ばしたい。見たくない。
そうして彼らは、倍速視聴に至る。
根本的解決方法就是減少人類的勞動時間(咦)
但這兩段立論的主語有些混同。
前面指的是大學生,後面工作說的卻是社會人士。大學生和社會人士的生活行程本就不同。工作和人際關係的確可以解釋社會人士的文本消費速食化,卻沒有完全貼合大學生的狀況。如果要我說的話,大學生是來自同儕的影響更大一些。當同儕討論的是碎片化的抖音影片時,大部分為了追上話題的大學生自然不願意花時間觀劇,而是選擇能和同儕共感的短影片。
彼らはコスパ追求のために「外したくない」のと同時に、不快なものの摂取を巧妙に避けている。人生の大事な時間を快適にすごすための、立派な自己防衛策である。
いま、映画評論本が売れない。これは、そちら方面の出版関係者なら重々承知だろう。
念のため説明しておくと、「評論」とは、「物事の価値・善悪・優劣などを批評し論じること。また、その文章」(「デジタル大辞泉」より)。つまり、良い点も悪い点も指摘し、公平かつ客観性をもって論じることである。「批評」も、ほぼ同様の意味だ。ちなみに「批判」も本来は同じ意味だが、どちらかといえば否定的に使われることが多い。
どんなに名の通った大御所評論家の評論集でも、気鋭の論客による渾身の著作でも、かつてほどは売上が見込めない。見込めないから、出版社で企画が通らない。だから刊行点数も少なくなる。
一方で、人気作や出演俳優の「ファンブック」はよく売れる。ファンブック、すなわち、作品を絶賛する出版物。
絶賛テキストのほうが、批評テキストよりもずっと読まれるし、SNSで拡散される。ぬるい大絶賛記事のほうが、切れ味鋭い客観分析記事よりもPVを取りやすい現実は、カルチャー系のライターなら誰もが知るところだろう。そのPVが逆転することは、非常に稀だ。
說到這現象我立刻想到仟有感而發的神威結局噗。
作品を体系的に観る習慣をもたない、コスパ重視思考の若者が増えたからだ。
「体系的に観る」とは、一例として、以下のような観方のことを言う。特定の監督や脚本家などの過去作を時系列順に観て、作風の変化を確認する。ホラー映画ならホラー映画の、ギャング映画ならギャング映画の、ジャンルとしての変遷を追いかける。「ヌーベルヴァーグ」や「アメリカン・ニューシネマ」といった同時代映画の潮流を意識しながら観る。アニメなら、スタジオや作画監督を追いかけたり、「ガンダムシリーズ」「プリキュアシリーズ」「東映魔女っ子アニメ」といったカテゴリ単位で視聴したりすることも、体系的視聴の一例だ。
読み手もその体系に含まれる作品群について、ある程度の知識や視聴経験がなければ、その評論を味わうことはできない。
「体系的に観る」作品の中には当然、明らかな駄作や自分の好みに合わない作品も山ほど含まれる。「観るべき作品をリストにして教えてほしい」と主張するタイパ(タイムパフォーマンス)重視の人には、きわめて相性の悪い鑑賞スタイルだ。
小鹿野
2 years ago @Edit 2 years ago
評論が読まれなくなったもうひとつの理由。それは、評論家のような“権威”から、あるいは自信満々な気鋭の書き手から、上から目線で「正しい観方(みかた)」なんて教わりたくないという反発心が、特に若年層のあいだで強いからだ。
なんだか偉そうな肩書のついている他人が、自分の愛している作品を勝手に分析したり、腑分けしてああだこうだとかき混ぜたりすることには、我慢がならない。ましてや、良い点だけでなく悪い点まであげつらって、「ここが良くない」などと意地悪に指摘するなんて、不愉快極まりないというわけだ。
哈哈哈哈哈哈。這倒是真的,「他以為他是誰啊」、「他憑什麼批評這部作品」、「不要硬套了啦」、「藍色窗簾也要有個限度」。這些針對批評的「批判」在中文、日文、英文使用者之間都不算少見。
ここでヒントになるのが、前回記事の森永氏による指摘だ。オタクになりたい若者たちが目指すのは“推し活動の楽しさ”である、という旨。
「推し活動であれば、自分が気に入っている作品を “けなされたくない”のは当然です。客観分析なんて必要としていない。推し活動は、推しが輝いていることが重要なので、輝きを失わせるようなことは言わないでくれますか? という話です。『私の彼氏/俺の彼女を悪く言わないで!』と同じメンタリティですね」(森永氏)
推ししか勝たん!!!!
小鹿野
2 years ago @Edit 2 years ago
個人滿推這篇《若者のあいだで「批評」と「スポーツ観戦」が不人気な理由》,儘管他的立論依然有值得討論的部分,但他很大程度上說明了我對於現今文本消費現象的不滿和憤慨。如果我有餘裕的話,也想要翻譯這篇(餘裕在哪裡TT)