燈下十日蟬
5 months ago @Edit 5 months ago
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燈下十日蟬
5 months ago
『よく「こそあど言葉」と言われる指示語もけっこう使っています。この指示語は観察者と対象との関係を示そうとして使われますから,対象との距離などの遠近関係,方角関係をよりはっきり記述に反映させようとしているためでしょう。そのような態度は「小岩井農場」の有名な最終行
「わたくしはかつきりみちをまがる」を宮沢家本では「かつきりみちは東へまがる」に直して「東」という方角を用い,更なる効果を試すような細かい推敲が続いていたことを物語っています』
燈下十日蟬
5 months ago
『「ひと」と「わたくし」は視点の所在を表しているのだと思います。
また「ひと」は自分とは離れたもの(対象世界)を代表しているという意味もあるようです。』
燈下十日蟬
5 months ago @Edit 5 months ago
(2ページ目)深い悲しみをどう生きるか――愛する妹が亡くなる前に書かれた“宮澤賢治の詩” | 文春オンラ...
『かつて日本人は、「かなし」を、「悲し」とだけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。』
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燈下十日蟬
5 months ago
『「透明な軌道」という表現は、人生の道は目に見えず、それぞれの人にとって固有のものであることを示している。』
燈下十日蟬
5 months ago
宮沢賢治「小岩井農場」解読⑤-やがて雨- | 星と写真の部屋

『「小岩井農場」という作品が自然現象とその観察者という構図で,観察者自身の果てしもない反応の数々が詩として成立するかどうかという実験がなされたことも確かでしょう。これらの詩が科学的であると自負する彼は自然現象に無限に反応する身体や感情の有様を忠実に写し取ることが第一義だったと感じさせます。』
燈下十日蟬
5 months ago
『景色を眺めながら詩人は,自分の意識を絶えず自分から投げ出して,思考の対象化のステージに運んでいきます。自分の外界に投げ出され,対象化した意識を詩人宮沢賢治は無限に言語化しようとしています。これはまさに心理学的な認識実験ではないでしょうか。まるで自己を対象化する劇を身をもって演じている一人芝居ということになります。そして永遠に果てるともない詩人の意識の分裂を,そのままに書き取っていくこと。』
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